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大阪高等裁判所 昭和36年(ネ)793号 判決 1966年4月08日

控訴人

菅月泉

代理人

藤田八郎

外五名

被控訴人

臨済宗相国寺派

大津櫪堂

代理人

桂辰夫

主文

原判決を取消す。

控訴人が京都市左京区銀閣寺町二番地を主たる事務所とする宗教法人慈照寺の、代表役員および責任役員の地位にあることを確認する。

控訴人の請求のうち住職の地位確認を求める部分を却下する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

事   実<省略>

理由

被控訴宗派が訴外慈照寺を包括する宗教団体であること、控訴人は慈照寺の住職、代表役員および責任役員であつたが、昭和三一年四月被控訴宗派管長と称する山崎大耕に宛て右住職等の退職を聴許されたい旨記載した書面を提出し、これが右山崎によつて受領されたこと、被控訴宗派が被控訴人大津を同寺院の特命住職に任命したため、大津は慈照寺の代表役員および責任役員に就任したと称し、同年五月八日控訴人から被控訴人大津へ右代表役員および責任役員の変更登記がなされたこと、以上の各事実は当事者間に争いがない。

控訴人は右住職等の退職は無効であり、現に控訴人が右住職等の地位にあると主張するので、以下これについて順次判断しよう。

第一住職たる地位にあることの確認は許されるか。

慈照寺が宗教法人法にもとづく寺院であることは当事者間に争いがなく、同法にもとづく寺院たる法人の管理機関は、代表役員、責任役員と定められていて、寺院の住職が、住職であることによつて、当然責任役員、代表役員の地位につくわけではない。従つて、寺院の住職でありながら、責任役員、代表役員でない場合もありうるのであつて、このことは、あたかも被控訴宗派の管長が宗派の責任役員でもなければ、代表役員でもないこと(この点は当事者間に争いがない。)とその軌を一にするものである。そうであるから宗教法人法の下における寺院の住職は、従来の住職が寺院の主管者代表者として、儀式の執行、教義の宣布等宗教的機能面の中枢的地位を占めるとともに、寺院を代表し、寺院の礼拝施設その他の財産の維持運用ならびに寺院の業務ないしは事業運営に関する事務を総理する権限を有していたのと異り、単に儀式の執行、教義の宣布等宗教的な活動ないしは機能面における主宰者たる地位を有するに過ぎないのであつて、寺院の管理機関としての組織法的な地位を有しないものといわなければならない。もつとも住職がこの宗教上の行為をするについては当該寺院との間に準委任類似の法律関係が存するものというべく、従つてこの準委任類似の関係にもとづく住職の特定の権利ないしは法律関係(たとえば住職の報酬請求権、寺院における儀式の執行、教義の宣布等の権限、慣行上認められる居住のための寺院建物使用権等)について争いがあれば、それが当該寺院との間でなく、被控訴人の如き包括団体たる宗派、右宗派より新たに派遣された住職の如き第三者との間に生じたものであつても、確認の利益があれば、これらを相手方として、右特定の権利ないしは法律関係の確認を求めうることはいうまでもない。従つて、住職の地位確認の請求が受任者たる地位にもとづき右の如き請求をなす趣旨であれば、もとよりこれを許容すべきである。しかしながら、本件においては、控訴人は慈照寺の住職としての右の如き特定の権利ないしは法律関係の確認を求めているのではなく、慈照寺規則(七条)上法人たる同寺の代表役員たる責任役員は同寺の住職とされているため、責任役員、代表役員たる地位を保持するための前提要件たる住職の地位を、法人たる同寺の組織法的な機関として、その地位一般の確認を求めているのであつて、このことは確認を求める相手方その他弁論の全趣旨に照して明らかなところである。そうであれば控訴人としては慈照寺たる法人の機関である代表役員、責任役員の地位にあることの確認を求めるだけで事足りるものというべく、そのほかに宗教法人法上の管理機関として法的地位をもたない住職につき、その地位一般の確認を求める必要もなければ、利益もない。もつとも控訴人が同寺の住職であるかどうかということ、すなわち前記準委任類似の法律関係の存否は、同寺の規則上代表役員、責任役員たる地位の有無の判定にさいし審理判断さるべき先決事項である点において、あたかも中間確認の訴えが提起された場合と同視し、当然確認の利益を肯定すべきであるとの見解も考えられないではないが(大判、昭和八、六、二〇参照)、本件において控訴人が確認を求める住職の地位そのものは、かかる法律関係ではなく、組織法的な機関としての地位であること前記のとおりであつてみれば、やはり確認の対象にならないものと解すべきである。

従つて、本訴のうち、控訴人が慈照寺の住職たる地位の確認を求める部分は不適法であるといわなければならない。

第二よつて、控訴人が慈照寺の代表役員、責任役員たる地位にあるかどうかについて判断する。

<証拠>によると慈照寺規則六条は、「この法人には四人の責任役員をおきそのうち一人を代表役員とする」と定め、同七条一項は、「代表役員は臨済宗相国寺派の規定たる宗制により任命されたこの寺院の住職にある者をもつて充てる」と規定し、右宗派の宗制には住職の資格を定めるとともに、未寺の住職は管長がこれをを任命する旨を規定している。

一、被控訴宗派管長に慈照寺住職の任免権があるか、

(1)  控訴人は右宗制は宗派規則によつて廃止され、その後管長の住職任免権を定める宗制は制定公布されていないと主張するのでまずこの点について検討するに、<証拠>によると、被控訴宗派は旧宗教法人令にもとづき、法人格を取得したのであるが、昭和二四年五月一五日に公布施行された憲章と称する規定があり、これによつて目的、名称、寺務所の所在地等の外、組織、寺院および僧侶、布数および法要等について規定していたこと、昭和二六年に宗教法人法が施行され、右法律により宗教法人になろうとするものは、目的、名称、事務所の所在地等同法一二条一項一ないし一三号に掲げる事項を記載した規則を作成し、その規則について所轄庁の認証を受けなければならないことになつたので、被控訴宗派では宗派規則を作成し、昭和二七年一〇月一日文部大臣の認証を得たこと、そして憲章については昭和二七年六月一九日の宗会において規則との牴触条項および字句の訂正を審議承認し、かつ名称を宗制と改めて存続させたこと、以上の各事実を認めることができる。右事実によると宗制の各規定は、右規則の規定に牴触しないかぎりにおいてなお存続するものというべきである。

なるほど規則の附則二項には、従前の規則は廃止するという規定があることは控訴人主張のとおりであるが、これが宗制(憲章)そのものの廃止を規定しているものでないことは、以上認定の事実に徴し明らかであつて、右にいわゆる従前の規則とは、被控訴宗派には、同宗派が旧宗教法人令により法人となつた昭和二一年頃に制定された同令(二条)にもとづく宗派規則が施行されていたので、これを廃止することを明らかにした規定とみるのが相当である。このことは同附則三項との比較対照上からも容易に推知しうるところである。また同規則五二条は規則施行に必要な細則は宗制で定めることができると規定しているが、右は規則の施行細則は宗制として、宗制の制定公布方式によることができる旨を定めたまでであつて、右にいわゆる宗制は将来制定公布されるものに限定する趣旨ではない。既存の宗制であつても、前記の如く規則との牴触条項ならびに文言を訂正して、施行細則たる宗制となしうることはいうまでもない。従つて、同条を以て、従来の宗制はすべて廃止され、新宗制は未制定のままであるとは解し難い。

(2)  従つてまた旧宗教法人令施行当時憲章(宗制)により慈照寺の住職たる地位を保有していた控訴人(この点は弁論の全趣旨に照して明らかである)は宗教法人法によつて設立され、従来の権利義務一切を承継した(同法附則一八項)慈照寺についても、住職たる地位にあつたのであり、宗派管長による新たな任命を必要としないことはいうまでもない。

(3)  控訴人は、かりに宗制の右規定が有効であるとしも、慈照寺規則七条一項は住職の任免を通じ、代表役員の選任を挙げて被控訴宗派の宗制に一任していることに帰するから、寺院の自主性、自律性を保障している宗教法人法の理念に反し無効であると主張する。しかしながら右規則は慈照寺が自主的、自律的に決定したものであるし、また同規則の援用する被控訴宗派の宗制では住職の任命は、現任住職、法類、総代の請願したものにつき管長が任命する建前になつており、実質上は住職の任命を被控訴宗派に白紙委任したことにはならないのであるから、慈照寺規則中に住職の任命権者や任命方法を定めていないからといつて、ただちにこれを無効とするのは行き過ぎである。けだし宗教法人法上慈照寺が右規則を変更して被控訴宗派との被包括関係を離脱する自由は、宗派規則、宗制の規定のいかんに拘らず保障されているのであるから(宗教法人法二六条、七八条)右の措置をとらない以上、自ら決定した規定に拘束されるのは当然であるし、また住職任命に関する宗制の規定の趣旨が前記のとおりであつてみれば、これをも宗教法人法が禁止し、その効力を否定する趣旨であるとは、とうてい考えられないからである。

(4)  さらに控訴人は、右宗制は宗教法人法にもとづき所管庁の認証を受けた宗派規則でないから、慈照寺住職の任免の根拠を宗制に求めることは、宗教法人法一二条一項一二号に違反すると主張する。なるほど前記慈照寺規則七条一項によれば被控訴宗派管長が宗制にもとづいて慈照寺住職を任命したときは、そのものが当然に慈照寺の代表役員および責任役員たる地位につくことになるが、これは被控訴宗派管長が慈照寺の代表役員等の任免権を有していることにもとづくものではなく、寺院の代表役員は住職にあるものをもつて充てるという右慈照寺規則七条一項の規定によつて生ずる結果である。換言すれば被控訴宗派の宗制は、慈照寺の住職について規定するに止まり、慈照寺の代表役員、責任役員についてはなんら言及していない。従つて前記宗制の規定をもつて宗教法人法一二条一項一二号、五号の、代表役員の任免につき他の宗教団体たる慈照寺を制約する事項を定めているものとはいえないし、また慈照寺規則七条一項も、代表役員の任免につき他の宗教団体たる被控訴宗派宗制の制約を受けていることにもならないのである。

(5)  もつとも寺院の住職そのものが宗教法人法一二条一項六号に定める寺院の機関であれば、包括宗教団体たる宗派の管長がこれを任免することに関し、寺院、宗派の両規則に相互規定をおく必要性が問題となるが、住職そのものは宗教法人法の下では寺院の機関でないのは前記のとおりであり、本件慈照寺規則一六条に、住職はこの法人の事務一切を主管するとあるのは、同規則九条に「代表役員はこの法人を代表しその事務を総理する」とあるのと対比するとき、住職の主管する事務は儀式の執行、教義の宣布等宗教的な機能に属するものを意味し、住職を以て法人組織の機関とする趣旨であるとは解し難い。そうであれば慈照寺規則七条一項、三三条、被控訴宗派規則五一条の規定の趣旨からみても、また宗派と寺院との間に包括関係が設定されたときは、宗派は寺院を構成員とする宗教団体というべきであるから、儀式の執行、教義の宣布等の純宗教的な活動ないし機能面において、寺院を拘束する自治規範を設定しうることは当然である点よりみても、被控訴宗派において、右自治規範たる宗制を以て、構成員たる寺院における儀式の執行、教義の宣布の主宰者たる住職につき、その資格等を定め、その任免権者を宗派管長と定めたときは、その規定の効力は当然構成員たる慈照寺に及び、これを拘束するものというべきである。

(6)  むしろこの点について問題となるのは、宗派規則三三条一項である。すなわち右規定は、被控訴宗派の末寺の代表役員は当該寺院の住職をもつて充てる旨定められており、これこそ慈照寺の代表役員の資格および任免につき、直接これを対象として制約していることが明らかだからである。したがつて右規定がその所属寺院たる慈照寺に適用されるためには、慈照寺規則中にもこれに対応する規定が存在することが必要とされるところ、慈照寺規則七条一項はこれに対応する規定であると認められるから、右制約事項を定めた規定が有効であることは当然である。

(7)  もし、控訴人主張の如く、慈照寺の代表役員を定める慈照寺規則、被控訴宗派の規則ならびに宗制が効力を有しないとすれば、控訴人が旧宗教法人令による法人たる同寺の住職であつたからといつて、宗教法人法による法人たる同寺の住職として当然代表役員の地位につく根拠を欠くことになるのであつて、控訴人が昭和二九年三月二五日、宗教法人法による慈照寺設立当時その代表役員に選定されたのは慈照寺規則七条にもとづくのでなく、同規則附則二項において代表役員と定められたことないしは当時責任役員の互選によつて選定されたものと解しても、代表役員は責任役員たる地位を前提とするものであることは明らかであるから(宗教法人法一八条一項、同規則六条)、その任期については住職が代表役員たることを前提とする同規則八条一項(住職在任中とある)の適用がなく、責任役員の任期を定める同寺規則八条二項の適用を受け、三年としなければならない。そうであれば、慈照寺設立後三年を経過すれば、右任期は満了するから、その後控訴人が同規則七条二項により檀信徒の総会で責任役員に推せんないしは選定され、さらに宗教法人法一八条二項の規定に従い責任役員の互選により代表役員に選定された事跡のない本件では、控訴人の代表役員、責任役員の地位は、住職退職願の効力いかんにかかわらず、もはや任期満了により消滅し、その地位の確認は過去の法律関係の確認を求めるものとして、確認の利益を欠くことになるわけであつて、控訴人の右主張は主張自体矛盾を含むものといわなければならない。

(8)  以上のとおりであるから管長は宗制三〇条にもとづき末寺住職を任免する権限を有していたものである。もつとも控訴人は、住職ばかりでなく代表役員および責任役員の退職願をも管長に申出ているものであり、管長には代表役員や責任役員を任免する権限のないことは明かであるから、右退職願が管長によつて受理されたとしても、それによつて控訴人の代表役員あるいは責任役員たる地位に何の影響もない。しかしながら控訴人の住職退職願を管長が受理することによつて控訴人は慈照寺住職たる地位を失い、もし右退職が有効であるとすれば、そのことと慈照寺規則六条、七条一項により代表役員および責任役員たる地位を失うことになるのである。

二、山崎大耕は被控訴宗派の管長であつたかどうか。

つぎに控訴人は、同人の退職願を受理した山崎大耕は被控訴宗派管長でなかつたと主張する。しかしながら被控訴宗派が旧宗教法人令により法人となるさい制定された規則によれば、管長は門末会これを選任するとありかつ附則三一条には「本派設立当初の管長は大本山相国寺住職山崎大耕を選任するものとする」と定められていて、旧宗教法人令による当初の管長が山崎大耕であつたことは明らかである。その後昭和二四年五月、宗会(門末会と同一機関であることはその内容上明らかである)の協賛によつて制定施行された宗制によれば、宗派管長は大本山相国寺住職を兼ね、宗会において選出するものと定められており、当時山崎大耕が管長であつたことは、右宗制にその制定者として管長たる山崎大耕の氏名が明記されておることから明らかであり、その後被控訴宗派、慈照寺等の末寺が新宗教法人法による法人となる経過時においても、山崎大耕が被控訴宗派の管長であつたことは、成立に争いのない甲第五五号証の四、七によつて推認しうるところである。そして成立に争いのない甲第五四号証によると被控訴宗派は昭和二七年一〇月一四日新宗教法人法による法人となつたのであるが、旧法人の権利義務一切を承継したものであることは、同法の規定に照らし明らかなところであつて、旧法人時代の宗制も新たな宗派規則と牴触しない限りにおいて存続するものであることは前認定のとおりである。もつとも宗教法人法の下では宗派規則により、管長は宗派の主管者、代表者たる地位を失つたけれども、これを以て管長の制度が宗派規則上も宗制上も廃止されたものとすることができないのは、宗派規則、宗制の規定に照らし明らかである。すなわち管長は信仰帰衣の中心的な存在として制度上認められ、宗派の代表役員たる宗務総長、責任役員たる執事の任命権を始めとして、末寺住職の任命権を有する等諸般の権限を有し、新旧法人時代を通じ存続する制度であり、しかも任期の定めのないことも宗制の規定から明らかであるから、被控訴宗派の管長は新旧法人時代を通じ、山崎大耕であり、同人は控訴人の前記退職願を受理する権限を有していたものといわなければならない。

もつとも被控訴宗派規則附則五項に、この規則施行の際現に存する従前の規則による職員(主管者を除く)はこの規則による職員とみなすと定めていることは、控訴人のいうとおりである。しかしながらここに主管者を除くというのは、従前旧宗教法人令にいわゆる主管者すなわち代表者とされていた管長が、規則の施行によりその主管者、代表者たる地位を去り、宗教総長が代表役員としてこれに当るようになつたこと、したがつて規則で主管者といえばむしろ宗務総長であつて管長はこれに該当しないことになつたので、従前の規則による主管者は新規則による主管者とみなすことはできないところから設けられた規定であるにすぎないと解するのが相当である。そうすると附則五項のような規定があるからといつて、新規則の下では管長というもの自体が廃止されたとか、山崎大耕が管長でなくなつたとかいうことはできない。

三  控訴人の退職申出は意思の欠缺により無効であるか。

(一)  右退職申出後の事情は次のとおりである。

(1) <証拠>によると、次のような事実を認めることができる。

(イ) 昭和三一年三月頃、観光寺院として多額の収入を得ている慈照寺の経理面が乱脈を極め、使途不明の金の一部は控訴人のなじみのバーのマダムにも貸されたものがあるらしいとの記事が各新聞に掲載され、控訴人は警察からも右経理状況について取調を受けたこと、

(ロ) その後慈照寺の本山である相国寺にも次第に捜査官や新聞記者等が出入するようになつたので、被控訴宗派としてもその対策を樹てる必要に迫られ、同年四月一一日頃被控訴宗派から宗務総長橋本修堂、被控訴人大津櫪堂、鹿苑寺執事長佐分春応らが、慈照寺側から控訴人夫妻、顧問弁護士で責任役員である訴外亡武松久吉らが懇談し、善後策として被控訴宗派から慈照寺に執事長を派遣して同寺院の経理について疑惑が起らないようにすればよいのではないか等と協議したこと、

(ハ) その後間もなく控訴人は、親交のあつた被控訴宗派所属竹林寺住職高林文栄から、本山では慈照寺の法類がさわぐからそれを鎮めるためにも、また本山の面子の上からも辞表を出させるようにいつているから退職願を出してはどうかとすすめられ、その頃控訴人の妻きぬも大光明寺の村田トヨ子から、今日大光明寺で控訴人の問題が協議されたが、それを立聞したところでは、どうやら控訴人も金閣寺の例により一応辞表を出さなければならないことになつたらしいと聞かされたこと、

(ニ) きぬは宗務総長橋本修堂を訪ね、控訴人は住職の退職願を出したいといつているがどうでしようかと尋ねたところ、橋本は、そうしてくれ、しかし金閣寺の例もあることだし、決して控訴人を殺そうというものではないとの返事だつたので、控訴人とも相談の結果、さきに金堂炎上問題により同派鹿苑寺(金閣寺)住職が辞表を提出し、被控訴宗派管長がこれを却下した例もあるので、これと同様控訴人の場合も本山で却下して貰えるものと考えて一応退職願を提出することにし、きぬから高林文栄にその文案を示してくれと依頼したこと、

(ホ) 高林は控訴人の場合も鹿苑寺住職の前記辞表と同様の場合であると考え、その文案を鹿苑寺の執事長佐分春応に相談したところ、佐分は退職願の文案を起草して高林に交付したので高林はこれをきぬに届けたこと、

(ヘ) そこで控訴人は右文案にしたがつて、慈照寺管理上の不行届の責任により同寺院住職を退職したいので聴許されたい旨記載し、作成日を昭和三一年四月とする退職願書を自ら作成し、同年四月二六日その提出方を高林に依頼し、高林は同日夕方これを宗務総長橋本修堂に手交し、同人は預るといつてこれを受取つたこと、

(ト) 通常住職退職願には法類および総代が連署する例となつているのに、右退職願にはこれらの連署がないばかりか、法類や総代に相談もなく作成されたものであり、退職願に法類等の連署がない点は前記鹿苑寺住職の場合と同様であつたこと、

(チ) 右退職願を提出した後同月二七日頃、控訴人夫妻は前記武松方を訪れ同人に対しその旨報告したところ、武松はその軽卒を叱り、本当に右退職願をにぎりつぶして貰えるかどうか被控訴宗派に確めるよう促したので、控訴人は直ちに電話で橋本に対し、高林が来てにぎりつぶすから辞表を出せというので出したが、にぎりつぶすことは間違ないかと尋ねたところ、橋本はこれに対し禅宗にいう殺して生かすことであると返事したこと、

(リ) 同日頃被控訴宗派宗務本所の久山忍堂が橋本の命で菅きぬに対し、退職願提出の理由を尋ねたところ、きぬは、本山の皆様の慈悲にすがりたいためであると答え、橋本は久山からその旨の報告を受けたこと、

(ヌ) 同月二七日被控訴宗派では右退職願について慈照寺法類の意見を聞いたところ、受理すべきものであるとの意見が述べられ、反対もなかつたので、被控訴宗派においては右退職願を一旦は受理し、その上で控訴人の復帰のことを考慮する外ないものと考え、同年五月一日被控訴宗派管長は控訴人の慈照寺住職退任を発令したこと、

以上のとおり認めることができ、成立に争いのない甲第三五号証、乙第一〇、一一号証のうち右認定に反する部分は措信せず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。右事実によると、控訴人としては金閣寺の例と同様一旦辞表は出すが、これは世間の風当りも強いので形式的に謹慎の意を表すためのものであつて、被控訴宗派においてもこれを受理しないものであるとの意思で退職願を提出したものであつて、右退職申出は真意にもとづいたものではないと認めるのが相当である。

(2) 控訴人は、被控訴宗派においても高林に指示して控訴人に右のような真意でない退職願を提出させたものであると主張するが、提出当時右退職願が真意にもとづかないものであるということを、被控訴宗派が知りまたは知ることができたものであるとの事実は、これを認めるに足る証拠が不十分である。しかしながら宗務総長橋本修堂は、四月二七日頃の午後、前記のように控訴人から、高林にいわれて辞表を出したがにぎりつぶして貰えることは間違ないかという電話を受け、また同人の妻きぬが、辞表を出したのは本山の皆様の慈悲にすがりたいためであるといつたということを久山から聞いているのであるから、少くともこのことによつて右退職願が控訴人の真意でないことを知り、または少くとも知ることができたものといわなければならない。そして宗務総長は管長が末寺住職を任免するについて、管長を補佐して事務を管掌するものであることは、被控訴宗派の宗制四五条によつて明かであるから、宗務総長がこれを知りまたは知ることができた以上、管長においてこれを知りまたは知ることができたと同様の効果を与えて差支えないものである。

(3) もつとも<証拠>によると、被控訴宗派管長は同年五月一日頃控訴人に対し住職退任の辞令を交付し訓戒をしたが、控訴人はその後で悪いことをしたと思つているといつていたこと、同月一一日慈照寺において被控訴人大津の入山式が行われ、控訴人や前記武松もこれに参列していたが別に異議も述べなかつたこと、その後右特命住職の下で慈照寺運営に関する協議会が設けられ、前記武松もこれに参加していること、その頃控訴人は山木莞堂、坂根黙堂に対し慈照寺会計事務の引継をしたこと、控訴人は五月末頃大光明寺に転居の上開山堂のお守をすることになり、慈照寺の住職らしい仕事は全くしていないこと、以上の右事実を認めることができる。そして右のような退職願提出後の事情からみれば、控訴人は退職の意思がなかつたとはいえないのではないかとの疑もないわけではない。けれども成立に争いのない甲第四〇号証によれば、四月二八日頃橋本修堂、佐分春応が前記武松方を訪れ、同人に対し被控訴宗派としては控訴人の退職願を受理し、後任住職を任命することにしたと告げたこと、武松は被控訴宗派が態度を急変したとして憤慨しその非を詰つたが、橋本らから後任任命は特命であるから暫定的である旨の説明を受けたので、退職願は一旦受理されても間もなく復職することができるものと期待し、暫くは事を荒立てないで様子を見ようという気持になつたものと認められるから、退職申出後の事情が前記のとおりであつたとしても、控訴人に退職の意思がなかつたと認定することの妨げとならない。

(二)  以上認定の事実にもとづき、控訴人の住職退職願の性質ならびに効力についての左の諸点につき順次検討する。

(1) 住職退職願は管長の受理を要するか、

住職は寺院における儀式の執行、教義の宣布等の宗教的機能面を担当する主宰者であり、これと寺院との関係は準委任類似のものとみるべきは前説示のとおりであつて、このことは住職の任免権者が包括団体たる宗派の管長であることによつて左右されない。そうであれば宗派規則、寺院規則、宗制等に特別の定めがない限り、民法六五六条、六五一条の規定に準じ、住職はいつでも一方的意思表示によりその職を辞任ないし退職することができ、その意思表示が管長に到達したときに辞任ないしは退職の効力を生じ、あえて管長の受理を必要としないという解釈もなり立ちうるのである。ところで本件の被控訴宗派では宗制等によりこの点を明確にした規定はないが、同宗派では諸願書様式を定めており、住職の辞任、退職は第八号様式の住職退職請願書なる様式に従うべきものとされ、これによると住職の退職を聴許されるよう請願するとの形式になつていて、退職者の一方的意思表示だけで退職できるのではなく、管長の聴許を必要とする体裁をとつているのである。また前認定の如く、鹿苑寺住職が提出した辞表も、住職を退職したいので聴許されない旨を記載したものであり、右辞表は管長において不受理として却下していること、控訴人の提出した退職願は鹿苑寺住職の提出した辞表をまねたもので、右と同趣旨であること、この退職願の提出を受けた宗務総長橋本修堂は預るといつてこれを受取り、後日受理、不受理いずれかの決定通知があることを暗に表示した事実を総合すると、控訴人の提出した退職願は退職の一方的意思表示の到達によつて効力を生ずる解約ないしは告知ではなく、従来の慣行に従い、管長の受理を要件とするものであり、これによつて効力を生ずる意思表示であると解すべく、被控訴宗派の管長も右趣旨を了承の上、控訴人の退職願を受領したものというべきである。

(2) 民法九三条但書適用の基準日はいつか、

住職の退職は民法の準委任の規定によつて律すべき分野に属すべきこと前説示のとおりであつて、身分行為でないこと勿論であるから、民法の総則規定たる九三条本文、但書双方の適用があるのを本則とするが、取引の安全を主眼とする取引行為でない点において、その適用上多少の差異を来すことあるを免れない、取引行為について同法九三条但書にいわゆる「相手方が表意者の真意を知りまたはこれを知ることを得べかりしとき」の基準日は、表意者の意思表示が相手方に到達し、了知し得たときであると解し、その後、相手方が表意者の真意を知りまたは知り得べき状況に至つたからといつて、その間に相手方が表意者の意思表示に応じてなした取引活動を犠牲にすることがないよう保護する必要があるのに対し、住職退職の意思表示の如き非取引行為については、右の如き相手方保護の必要性は乏しいし、むしろ、退職者の真意を尊重することの方が重要である。とくに本件の如く、住職の地位が世襲的なものであり(この点は弁論の全趣旨及び前記宗制一四一条によつて認める)、かつ代表役員の地位に連なる場合はそうであつて、住職退職の意思表示は相手方たる管長の受理を要件とするものと認めるべき所以もまたここにあるのである。管長の受理は退職の意思表示の形式的要件を審査する趣旨もあるにはあるが、主たる目的は退職者が真に退職する意思を有するかどうかを判断せしめる点にあるのである。従つて右九三条但書の適用基準時は管長の受理当時と解すべきは当然であり、前認定の如く被控訴宗派の管長が控訴人の退職願を受理した当時、右退職願が控訴人の真意でないことを知り、または知ることができた状況にあつた以上、その退職の意思表示は効力を生ずるに由なく、たとえ管長がこれを受理しても無効であることはいうまでもない。

(3) 右退職願の無効は被控訴人大津櫪堂に対しも主張することができるか、

民法九三条但書により非真意の意思表示が無効の場合においても、同法九四条二項を準用し右無効を以て善意の第三者に対抗することができないものと解するのが相当であるが、右は取引の安全保護の要請せられる取引行為についてのみいいうることであり、そうでない住職の退職の如き本人の意思を重視すべき非取引行為にまでこれを拡張することは行き過ぎである。とくに本件の如く、住職が当然寺院の代表役員につく場合においては、その代表役員たる地位が劃一性の要請される組織法的な性格のものであり、第三者の善意、悪意によつてその地位の存否に差異を来すようなことは許されない点において、前記民法九四条二項の規定の準用は排除されるものと解すべきである。本件において前認定の如く控訴人の退職願が管長に受理され、その後任として被控訴人大津櫪堂が管長によつて慈照寺住職に任命せられ、同寺の代表役員として登記されておるのであり、しかも慈照寺規則上も、宗制の規定上からも、同寺の住職ないしは代表役員は一人に限定されているのであるから、同被控訴人は控訴人の退職が有効であることを前提として利害関係(住職の職務は有償の準委任関係とみるべきこと前説示のとおりである。)をもつに至つたもので、右にいわゆる第三者に該当するものといわなければならない。そして弁論の全趣旨によれば、被控訴代理人は被控訴宗派及び被控訴人大津櫪堂の善意を主張しているものと解されるところ、被控訴宗派が悪意であつたことは、前認定の事実に照らし自ら明らかであるが、被控訴人大津櫪堂が悪意であつたことを認めうる証拠はなく、従つて一応善意であつたといわなければならないけれども、民法九四条二項の準用がないこと前説示のとおりであるから、控訴人の住職退職が無効であれば、同被控訴人の後任住職就任は当初から無効であり、控訴人が依然として同寺の住職、代表役員、責任役員たる地位を保有するものといわなければならない。なおこの点につき同被控訴人が後任の代表役員として従来慈照寺のためになした諸般の法律行為の効力が問題となるが、右は民法一〇九条、商法一四条等の禁反言の法理により解決せられるべき別個の問題である。

(4) そうだとすれば右住職退職願を被控訴宗派管長が受理し、後任住職が任命せられても退職の効果を生ずる筈がなく、控訴人は依然住職として慈照寺の代表役員および責任役員の地位にあるものである。

四、降階処分によつて控訴人は住職の地位したがつて代表役員の地位を失つたかどうか。

(1)  <証拠>によると、控訴人は昭和三二年三月一〇日再住職から首座職まで法階を降階せられたこと、宗制一三六条には、住職は座元職を禀承し、法系嗣承式を挙行し、安居会を一回以上修了することを要すと定められていること、同一七一条によると座元職とは法階の一であつて、法階には一、特住職から一三、沙弥職まで一三段階が定められ、再住職が三、座元職が九、首座職が一〇の法階であることが認められる。

(2)  しかし当時の宗制のうち法階に関する規定を仔細に検討しても、降階処分に関する明確な規定がないから、これが許されるかどうかは疑問であるばかりでなく、とくに住職がその地位にありながら座元職以下に降階される場合のあることならびにその場合に住職が住職の地位を失うという趣旨を定めた規定はない(宗制一三六条を以て右趣旨の規定とみることができないのは、その文言に照して明らかである。)。しかのみならず。住職が首座職以下に降階されることによつて住職の地位を失うものとすれば、名は法階の降階といいながら実は住職の罷免を意味することになる。かくては慈照寺規則七条が規定する如く、宗制によつて同寺の住職に任命されたが故に、代表役員の地位を取得したものが、宗制によらずして一方的に罷免され、住職、代表役員の地位を失うという不当な結果を認めざるを得ないこととなる。もつとも住職任命の法的性質は民法の準委任類似の関係であると解すべきこと前説示のとおりであるから、宗制に規定がなくても、管長の一方的意思表示たる告知により、住職の罷免が有効に行われるような観もないではないが、前記願書書式によつて明らかな如く、住職の退職願ないしは辞任願についてさえ、法類、総代の連署を必要とするほか、管長の受理を必要とする建前になつていることと対比するとき、住職の罷免が、法類、総代の意思如何にかかわらず、管長の告知たる一方的意思表示により、ただちに効力を生ずるものとすることは均衡を失するし、また住職の事務処理は寺院ないしは管長の利益であるとともに受任者たる住職の利益である場合、とくに本件の如く住職の地位が代表役員たる地位に連なるとともに、住職の事務処理が有償であり、慣例上寺院建物内の居住使用が認められ、かつ住職の地位が世襲的なものである場合においては、宗制、宗派規則、寺院規則等に特別の規定がない以上、委任者の告知権の放棄は適法であるし、また慣習上告知権の放棄があつたものと認めるのが相当であつて、民法六五一条の適用がないものと解すべきである。従つて住職の罷免は宗制、規則にもとづき懲戒ないしは制裁処分として適法になされる場合は格別、そうでない限り管長と住職との合意によるものでない限り効力を生じないものと解すべきである。そうであるから、単なる降階処分によつて住職の地位を剥奪することは許されず、また住職の地位にとどまる限り、当然座元職以上の法階を保持するものというべきである。

(3)  ところで、本件降階処分当時、規則、宗制に剥職降階等の懲戒ないしは制裁に関する規定がなかつたことは被控訴人らの自陳するところである。寺院が他律的なものとして、宗派の主管者、代表者たる管長の独裁的な支配監督に服していた往時いざ知らず、宗教法人法によつて寺院の自主性、自律性が認められるに至つた現在、宗派規則、宗制、寺院規則に何ら明文がないのにかかわらず、宗派管長、末寺の住職、従つてその代表役員、責任役員たる地位を剥奪するような降階処分が、懲戒ないしは制裁として許されるかどうかは頗る疑問であり、宗教法人法が一二条一項一二号、一八条五項の相互規定により寺院の自主性、自律性を保障した趣旨よりすれば、むしろこれを否定するのが相当であると解する。もつとも宗派は包括的な宗教団体(社団)であるから、団体の秩序維持に必要な限り、規則、宗制に明文がなくても、自律権の発動として制裁処分をすることができ、また構成員たる寺院は任意に被包括関係を設定した以上これに服すべきであるとの見解も考えられないではないが、右によればその制裁処分は直接の構成員たる末寺に対してなさるべく、またその内容は除名と同様宗派からの離脱を以て本筋とすべきであり、末寺の構成員として専ら末寺の寺務に従事する住職に対し、降階処分によりその地位を剥奪しうることを肯定せしめるに足る十分な根拠にはなりえない。

(4)   被控訴人らは、降階処分は宗教上の懲戒処分であるから、規定の有無にかかわらずこれをなすことは当然許されるかの如く主張する。右は宗派管長が宗教上の機能面において、その宗派に所属する住職その他の僧侶を監督支配する権限を有し、住職僧侶はこれに服すべき関係にあることを前提とするものと解されるのであるが、かりにかかる見解の下に宗教上の懲戒処分が許されるとしても、その処分の結果が単に宗教上の機能面にとどまる場合は格別、その処分が処分を受けるものの市民法上の地位に影響を生ぜしめる場合においては、その処分権限を認める根拠規定が、規則、宗制等に存することが必要であり、宗教上の懲戒処分であるからといつて無制限な行使は許されないものと解する。とくに本件の降階処分の如き、寺院の責任役員、代表役員たる地位を奪うような内容のものについては明文の規定を必要とすること前説示のとおりであり、またこれが宗教上の懲戒処分としてなされたものであつても、司法審査に服することはいうまでもない。

(5)  従つて、かりに被控訴宗派ないし管長において懲戒ないしは制裁処分として、被控訴人ら主張の如き降階処分をなしうる権限があつたとしても、控訴人に右処分に値いする事由があつたことの主張、立証がなければならないのはいうまでもない。ところが被控訴人は懲戒事由として「僧侶に相当しない行跡」、「宗派の体面を保持することができない事由」があつたと主張するだけで、何ら具体的な事実は主張していないし、また控訴人の所為が降階処分に値いする所以についても何ら具体的な主張ないし立証をしていないのである。もつとも本件の紛争は、控訴人がバーのマダムに営業資金を貸与する等慈照寺の経理面の乱脈が新聞紙上に報道されるとともに、刑事事件としての捜査が開始されたことに端を発することは前認定のとおりであるが、右刑事事件(業務上横領被告事件)については無罪の判決が確定していることは弁論の全趣旨(記録編綴の昭和三五年四月九日付証明書等)に照して明らかであり、これに右女性問題を考慮に入れても、控訴人に右懲戒ないしは制裁処分に値する程度の非行があつたものと速断することはできない。従つて被控訴人主張の降階処分を有効と認めるに足る主張、立証がないことに帰するものといわなければならない。

(6)  そうであつてみれば、控訴人は被控訴人主張の降階処分にかかわらず、慈照寺の住職であり、同寺の代表役員、責任役員たる地位を保有するものといわなければならない。

第三結語

右の次第であるから、控訴人の本訴請求のうち住職の地位確認を求める部分は不適法として却下すべきものであるが、代表役員および責任役員の地位の確認を求める部分は正当として認容すべきである。よつてこれと異る原判決はこれを取消すべきものとし、民訴法九六条、八九条、九二条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。(金田宇佐夫 日高敏夫 中島一郎)

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